鼎談「100年企業の条件」連載①
2013/01/11 金曜日 09:21:13 JST

危機感の共有で震災と戦争を乗り越え経営危機でつくられた5つの指針

大川印刷(戸塚区上矢部町)の創業は明治14年(1881年)。横浜とともに131年の歴史を歩んできた。しかし今日に至るまでの道は決して平坦とはいえない。度重なる戦争と4代目社長の急逝、バブル経済の崩壊による経営危機と、数多くのターニングポイントがあった。なににどう立ち向かうことで100年企業として成長を続けているのか。大川哲郎氏(㈱大川印刷代表取締役)、齊藤毅憲氏(関東学院大学教授・横浜市立大学名誉教授)、吉田正博氏(地域自立総合研究所所長)による鼎談で考える。(文中敬称略) img_1513.jpg
■薬瓶ラベルとの出会いが印刷の始まりだった
――創業は明治維新からわずか14年。当時の日本人は西欧文化に瞠目し、旺盛にその技術を取り入れていた頃です。そもそも印刷に着目した理由はなんだったのでしょうか。
大川 大川印刷の創業者は大川源次郎です。生家は薬種貿易商(医薬品の輸入販売業)を営んでおり、家業を手伝いながら薬瓶に貼ってあるラベルの精緻な美しさ惹かれたのが、印刷に興味を持ったきっかけだったと聞いています。当時、薬瓶のラベルの翻訳は手書きでしたから、これを印刷に代えられないかと考えたようです。
20代で創業するとドイツやイギリスから最新の印刷機を輸入し、太田町1丁目で印刷業を始めました。伝えられているところによると「輸入薬品のラベルは外国語で記されているので日本語で読めるようにする必要があり、語学力と共に正確性が重要」と創業の目的と品質の良さをうたっていたそうです。
吉田 明治末期には従業員100名を超える企業に成長していますが、社業発展の背景にはなにがありますか。
大川 当時の印刷業の多くは生糸札の印刷を一般に手がけていたと聞きます。そこに輸入医薬品のラベルと言う、医薬品分野と“翻訳”という他社にない独自性を打ち出したからだと思います。また、輸入医薬品を扱うという社会性のある仕事のため、印刷だけにとどまらず医薬品の規格基準書である「日本薬局方」に準拠して、全国に流通する医薬品のラベルを1冊の本にまとめ「大川薬名箋」を発行しています。これは医薬品のカタログのようなものかもしれません。この本は「薬名箋なら大川」というほど定評を得ていました。いまでいう“社会貢献”という視点が事業にあったのではないか、と思います。

■震災、戦争で事業継続の危機に
齊藤 その後、日本は非常に厳しい激動の時代に入りますね。
大川 明治43年(1910年)に大川重吉が2代目社長に就任します。ドイツから最新の平版印刷機を導入するなど、さらに社業を発展させますが、大正12年(1923年)の関東大震災で営業所や工場、倉庫、東京出張所まで、すべて焼失してしまいました。罹災により規模の縮小を余儀なくされましたが、昭和に入るとオフセット印刷機を導入して近代化を推し進め、「復興記念横浜大博覧会」の会場案内図も印刷するなど、会社を再興させています。ところが、今度は太平洋戦争が始まり、昭和20年(1945年)に横浜大空襲ですべてを消失してしまいます。この震災と戦争が最初のターニングポイントですね。企業がなくなってもおかしくはなかった。
齊藤 横浜の企業は関東大震災と太平洋戦争で事業の承継が行われることなく、多くがなくなってしまいました。
吉田 戦争の怖さは一瞬でなにもかもが消えてしまうことですね。しかし、御社の場合、震災にあっても翌年には仮社屋ながら元の場所で事業を再開していますし、戦後は焼け野が原となった横浜ですぐに事業をスタートさせていますよね。齊藤先生がおっしゃるように、これは並大抵のことではないと思います。これは社長の事業に対する熱意だけでなく、危機感を共有する社員たちがいて、会社一丸となったからだと思います。そこには学ぶべきものが多くありますね。

■信頼がBCPにつながる
大川 もうひとつ、このターニングポイントで私が感じているのは、信頼を築きあげることの大切さです。じつは、焦土と化した横浜に唯一、印刷設備が残っている場所がありました。それは横浜税関で、これを知った重吉は官公庁の印刷を優先的に行うという約束をして、休眠中の施設を借りて事業を再開しているのです。長年横浜で築き上げた信頼がなければできない話です。
齊藤 信頼というのは、企業がいま課題にしているBCP(事業継続計画)にもつながる話ですね。
大川 企業ポリシーも明文化されていました。100年以上前に新聞に出した広告には、「いたずらに価格競争をしない」「納期を厳守する」「品質が第一」などをうたっているのです。今でも企業理念として通用する事柄ではないかと思います。
吉田 江戸の商家に代々伝わる“家訓”を感じさせますね。大川家は江戸時代まで遡ると、何をされていましたか。商家だけが持っている精神的な流れが脈々と引き継がれているように感じます。
大川 千葉県で造り酒屋を営んでいたように聞いています。
齊藤 この広告にうたった企業ポリシーは、いまの企業理念と同じですか。
大川 違います。じつは、家訓や経営理念のようなものは存在していませんでした。いまある企業指針の“大川スピリット”は私の母で5代目社長の大川幸枝(現会長)の時代に社員有志と共に作り上げたものです。

■経営理念で危機を乗り切る
大川 次のターニングポイントは私の時代に入ってからです。昭和61年(1986年)に4代目の社長で父の大川英郎が急死しました。今なら医療ミスを問われるような、入院中の突然の死でした。私はまだ学生で、社長には専業主婦の母が就きましたが、社内は大混乱に陥り、辞めていく社員もいました。周囲に支えられてなんとか大学を卒業し、懇意にしてくれた東京の印刷会社で3年ほど修行に勤めました。そして平成4年(1992年)に大川印刷の社長室室長として戻りました。しかし、時代はバブルの崩壊で価格競争の最中、長年の取引先も失いました。社内のモラルは乱れており、内憂外患でまさに危機的状況でした。
齊藤 お父さんの代からの古参の取締役が、経営面であまり機能していなかったわけですね。
大川 役員や従業員が退職後、取引先に営業をかけるなど、悲しいことがたくさんありました。企業規模に対して役員が多すぎたことも問題のひとつです。人の問題でどうすればいいか悩みました。
齊藤 そこで企業指針の大川スピリットをつくったのですね。
大川 私は平成7年(1995年)に専務になり、それまでの業務改善活動をさらに推し進めますが、なかなか思うようは行きません。そこで幸枝社長の下、社員さんの有志でつくったのが、企業指針の大川スピリットです。これは社内に委員会を設置してみんなで考えました。以下のようになります。
1.お客様を大切にする心
仕事は正確・迅速・満足を旨とすること
2.元気な挨拶から
人の和をはかり、明るい職場 づくりに努めること
3.拡大発展をめざして
人・物・金を大切にし、日々の改革が企業発展の道と心がけること
4.チャレンジする心
現状維持は退歩なり 創意工夫に努めること
5.最高の品質をめざして
自社の製品や技術に誇りと責任をもつこと
吉田 うーん。100年前の広告と似ていますね。やはり、経営の原点にもどることが大切なんですね。
(つづく)

写真:左から齊藤毅憲氏、大川哲郎氏、吉田正博氏
2012年12月11日取材